本研究は、現在中国で行われている計画生育政策(いわゆる一人っ子政策)を可能にした社会的条件が如何に形成されたかを明らかにしようとするもので、特に1950年代の上海の状況を重点的に研究した。 研究の結果、次のことが明らかになった。1950年代は、上海の女性にとって子供を産む状況が大幅に変化した、何重もの「お産革命」が同時に進行した時期であった。その内容は、第一に、「新法接生」が普遍化し、その結果、産婦死亡率・乳児死亡率が大幅に低下したこと。第二に、出産場所が自宅から病院に変わったこと。さらに第三に、政策的な生殖コントロールが蛇行的ながらも開始され、避妊・人工流産・絶育(不妊手術)による生殖コントロールが、女性たちに提供されるようになったこと、である。 政策の受け手であった女性たちの側から見れば、彼女たちは、人口政策の必要から提供された生殖コントロールの手段を、産婦人科医・助産士、居民委員会・婦女連合会幹部などの女性スタッフとの関係の中で、選択し/選択せず、産む/産まないことを体現する主体として自己形成していった。当時の女性の就業促進と識字運動は、生殖コントロールの方法と情報に手が届いていなかった多くの女性を、それにアクセスすることを可能にした。中華人民共和国成立後の社会変化の中でエンパワーメントされた女性たちは、産むこと/産まないことを選択する主体として自己形成していった。 総じて、1950年代の上海では国家の人口政策と母子衛生政策は、女性たちのリプロダクティブ・ヘルスの向上に寄与していた。同時にそれは、個人の身体への国家による介入の開始を意味するものでもあり、のちに強制力を持った「一人っ子政策」が、全国の中でもとりわけ上海で「成功」を収める社会的基盤を用意するものでもあった。
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