本研究は、本居宣長の古事記解釈である『古事記伝』を、中世の日本書紀解釈の伝統のうちに位置づける試みであった。この3年間は、その観点から、考察のベースとなる中世から近世にかけての日本書紀解釈の資料収集と基本的な整理に多くの時間を割きながら、その史的位置づけを行い、同時に論の中心である『古事記伝』と照合する作業を行ってきた。 ここでは考察の概略を述べる。 平安期の講書に基づいた卜部兼賢『釈日本紀』、吉田兼敦の試み、そうした先駆の上に、解釈として書紀記述を仏教書や儒学書に照応させた一条兼良『日本書紀纂疏』、『纂疏』を踏まえ、書紀記述の相互照応の中から一元的なパースペクティヴを構築した吉田兼倶の講義、その総合化をめざした清原宣賢の講義、さらに近世の山崎闇斎、玉木正英による解釈---、いずれも時代の要請に応じた天皇神話の「変奏」の試みと見なせることは神野志隆光氏が明らかにしたところである。本研究では固有の時代的意義をいったん括弧に入れて、上記の解釈の特色を、宣長『古事記伝』への寄与という観点からすべて見直すことをめざした。その結果、見出されたのは、解釈を方向づける数々の読みの制度であり、書紀学の伝統に対する宣長の拒絶の身振りをも促す、そうした制度の集積であった。論文では、この制度を具体的に明らかにし、この制度に則した『古事記伝』の解体を試みているが、これは、徹底して構造化された『古事記伝』を成立史的に理解し直すことになるだろう。 一方、研究の過程で、宣長の徹底した構造化の営みをささえた時代思潮にも注目するようになった。論文「時代観察の方法-杉田玄白と海保青陵」は、宣長の生きた時代の思潮の特質を論じたもので、本研究から派生した成果である。
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