啓蒙思想における人間論を歴史的観点から見ると、人間を動物種と見なして、人類の歴史を自然界の歴史、すなわち自然史として解釈するディドロやドルバックらの自然主義的な歴史観と、人間を神の命令によって他の生物種に君臨すべき理性的存在として理解し、人間の歴史を人類の進歩のプロセスとして解釈するコンディヤックやビュフォンやルソーらの文明社会史的な歴史観とに分けることができる。啓蒙主義の人間論を包括的に論じた『啓蒙の世紀における人類学と歴史』の著者ミシェル・デュシェは、必然的な原因と結果の連鎖で結ばれながら、始まりも終わりも持たない進化論的な適合による永遠の生成のプロセスとして人類の歴史を解釈するディドロの唯物論的・自然主義的歴史観が、コンディヤックやビュフォンやルソーらの進歩史観が暗黙の内に前提する完成という目的因の概念、さらにはある原因にはある結果が対応するという因果関係、すなわち因果性の概念を否定するのだという。だが、ディドロの自然史が目的因を斥けることは、必ずしも因果性一般の否定を意味しない。なぜなら、デイドロやドルバックによる人類の自然史が、キリスト教の最後の審判なり、人類の進歩の完成なり、あらゆる歴史の終局という目的因を確かに拒むのは事実としても、ディドロやドルバックの自然主義的唯物論から帰結する道徳説は、むしろ、個人の自由意志を否定し、個人の意志を決定する諸原因と結果の必然的対応としての自然科学的な因果法則を要請する因果論的決定論に基づくからである。その意味では、ディドロやドルバックの道徳的決定論において、原因と結果の必然的な連鎖、すなわち因果性は、個人の恣意的な意志に左右されず、報償という快楽と懲罰という苦痛を、人間の意志を操作する強力な原因として利用することで、市民を徳行の実践による社会全体の幸福へと誘導する功利主義的な道徳論と政治論の要石の役割を果たしている。
|