所期の課題にこたえるため、天皇の食事の実相とその食材の集め方を検討した。その結果、次のような事実が明らかとなった。 九世紀末期まで、天皇は律令国家の君主として、日々、隋唐様式の性格な食法を実践していた。すなわち内膳司(進物所)が調理し、銀器・銀箸・銀匙に大床子・御大盤を用いるものである。しかし天皇独自の食材(贄)は、七世紀以来の収取構造に依拠して調達されていた。いわば七世紀以来の国制構造のうえに成り立った隋唐様式の食事であった。全国を一律に支配するという理念をかかげた律令制下の天皇は、全国からの貢進物を食べるかたちで、その支配理念を日々体現していたということができる。 そうした中、九世紀末に変化がはじまる。新しい調備機関(御厨子所)が生まれ、従来の御膳(朝夕御膳)の腋に新しい御膳(御厨子所御膳)が付加されるようになる。十世紀初頭には朝夕御膳が形骸化し、代わって全く新しい朝干飯御膳が生まれる。これは平敷の畳にすわり土器・木箸で食するものであった。これらは非隋唐的な御厨子所御膳への志向がその原因となっていた。これにともない贄の調達方法にも変化が生じる。御厨子所独自の食材収取ルートが成立し、またそれとは別に新しい一般収取ルートが制定される。これらはともに畿内におかれ、天皇の食材に主に畿内から集めるものになった。畿内に収斂した理由は、当時の畿内の政治・経済的背景があった、ここに至り天皇は、全国から集められた食材を隋唐風に食べる存在ではなくなった。支配理念は明らかに変質した。ただ重要なのは、そうした変化を生み出した動因が、いわゆる下部構造に単純に求められない点にある。非隋唐的な御厨子所御膳への志向が根本にあった。日常生活のなかで広く起こっていた文化変容が食事にもおよび、それが国制をも変化させることになったのである。
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