伊勢湾周辺地域の湊と廻船研究を考えるうえで重要な点は2点である。ひとつは伊勢湾周辺地域の産業が発達しているおり、産業の発達と同じくして廻船の発達があるということである。産業の発達にともなう廻船の発達は原材料の調達と、製品の販売である。18世紀後半になると、自給自足(地産地消)経済ではなく、特産物などを大量に生産し大消費都市に送ることを考えるようになる。大量に生産するためには大量の原料が必要である。その原料を地元だけで生産できれば良いが、そうでない場合がほとんどである。そのため、遠隔地から廻船で原料を調達する。また、これまでの研究において、生産地と結びつきの深い廻船は製品の販売輸送を重視することが指摘されている。荷主と廻船の関係は荷主の方が強い場合が多い。とすれば、生産地と結びつきの強いその地域の廻船は製品輸送に重きが置かれるため、原材料の調達を行う新しい廻船が生まれる余地がある。 ふたつめは新しい廻船がどのように生まれるかである。原材料の調達を行う廻船が必要であるといっても、すぐに廻船が生まれるわけではない。その点は廻船ではない小船の成長である。このことを踏まえ、とくに重要な場所は熊野・尾鷲地方である。この地方は農業生産が低い場所であるが、熊野参詣など多くの人々が訪れる場所である。米の調達を行うことが不可欠であり、伊勢湾周辺から小船で米を運び、帰り荷として、林産加工品が運ばれ、それが醸造道具や窯業の燃料に使用された。このような小船が大型化し廻船へと発達していった。 このように大量生産システムのなかでの廻船の発達を位置づけることができよう。さらに、白子・四日市・桑名・熱田・大野・大浜・鷲塚・平坂などの湊とどのような結びつきをしていたかについて考えなくてはならない。生産者・廻船問屋・廻船船主との関係は密であり、廻船を活用できる地域システムが存在していたことが明らかになった。
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