本年度は、谷崎潤一郎の昭和初期の作品における読者との関わりを中心に研究を行い、以下の3点についての論文を発表した。 まず、谷崎が、探偵小説専門雑誌『新青年』に連載し未完のまま中断した初出『武州公秘話』(昭和6〜7)とその3年後に完結した物語に改稿されて中央公論社から刊行された単行本テクストとの比較を行い、発表メディアの特性に基づいた戦略が、改稿を経て、失われることを指摘した。このような語りの方法の転換の検討を通して、作品と読者との半ば偶発的な出会いによって現象した、言説と読者の間の力関係の質を考察した。次に、昭和18年「中央公論」において連載開始したものの、当局の干渉によって掲載中止となった『細雪』をめぐって、<発禁>という出来事がテクスト生成にもたらした影響について、戦前、戦中、そして戦後それぞれの時期の読者を取り巻く風俗の問題と読書行為の質的転換を関連させて論じた。さらに、<通俗>とみなされていた一般読者に対する昭和初年代の谷崎の位置を表現レベルから測定するために、『文章読本』(昭和9)を素材として検討した。 この他、大正前半期の谷崎の作品分析を行いながら、一次資料の蒐集と分析を行ってきた。具体的に取り組んだのは、大正3〜15年に断続的に刊行された新潮社『代表的名作選集』である。この叢書における出版社のメディア戦略と流通の方法などを手がかりに、当時の作家および読者の意識に与えた影響関係を明らかにしょうと構想しており、現在、発表準備中である。 さらに、研究対象としての「日本近代」の幅を広げるために、本年度はカナダ・バンクーバー市における日本人コミュニティーの読書状況についての資料調査と聞き取り調査を行った。
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