本研究は当初ユーリイ・ロトマンを代表とするソ連記号論の位相を20世紀ソ連の文化的連関のなかにおいて把握すること、また国内外ともに全貌が網羅されていなかったモスクワ・タルトゥー学派の論考を体系的に整理することを目的とするものであったが、研究に着手した前後から同学派の代表的な研究者の論考が体系的に刊行されるようになったため、対象を狭義の記号論者に限定せず、同様の枠組で思考したロシア(ソ連)の詩人、小説家、批評家などにまで範囲を広げ、また現代ロシアの文化現象に対して「境界-外部-内部」「自己-他者」等の記号論的方法を適用しての考察を行った。ソ連(ロシア)文化一般における記号論的な思考の位置とその臨界点を探ろうと試みたのである。ソ連記号論は基本的には西欧記号学と方法や方向性を一にしており、本研究の学術的な意義は、1970年代後半から顕著になった両者の分離が何に起因するのかを解明することに存しているが、ソ連記号論と西欧現代思想とのこの分離は、主としてテキストの外部をテキスト内においていかに表象するかという問題に対する立場の相違によるものと考えられる。ところでロシアおよびソ連文化のコンテキストにおいては、テキストの外部すなわち表象不可能なるものは、伝統的に「空虚」ないし「無」として語られてきたという経緯がある。 このことに鑑み今年度は、亡命詩人ブロツキイおよび現代作家ペレーヴィンのテキストにおける「空虚」「無」の表象を分析し、またロシア文化の伝統における同様の表象とのつながりを考察した。前者については2004年12月14-18日にモスクワで開催された国際シンポジウム「世界文化のコンテキストにおけるロシア文芸Русская словесность в контексте мировой культуры」において「ブロツキイの詩学における普遍性Всемирность в поэтике Иосифа Бродского」と題するロシア語の報告も行った。 また20世紀ロシア文学における「自己」「他者」表象の境界線のあり方を考察する試みの一環として、「マンデリシタームのアルメニア巡礼」(日本ロシア文学会2004年度研究発表会ワークショップ「近現代ロシアの文化的ナショナリズム」2004.10.2.於稚内北星学園大)、「現代ロシアにおける作家像の再構築:チャアダーエフについて」(ロシア・東欧学会2004年度研究発表会2004.10.9.於北海道大学)、「詩人・境界・他者:ロシア文学におけるアルメニアへの3つの旅」(JSSEESシンポジウム「カフカース:スラヴ世界とイスラム圏のボーダー」2004.10.30.於東京工業大学)などの口頭による報告も行った。 平成16年度は本研究の最終年度でもあるので、この3年間の関連論稿を体系化して研究報告書を作成した。
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