昨年度に引き続き、以下の調査・研究をおこなった。 1 北海道大学スラヴ研究センターにおける昨年度の調査に引き続き、ペテルブルクのロシア国立図書館(PHб)で、(1)『罪と罰』、『悪霊』、『作家の日記』といった作品の題材に取り入れられた新聞記事、(2)同時代の司法制度改革に関する文献、(3)日本では入手できないドストエフスキーの研究文献の若干を収集し、また国内での資料収集を続けた。 2 『罪と罰』の背景となっている1860年代の犯罪に関する言説を分析し、19世紀のロシアの文学界においていわゆる「分厚い雑誌」が担った役割をたどることによって、「大改革」期における「世論」の形成とそれにともなう言説の存在様態の不安定化が、ドストエフスキーの作品の言語の存在様態そのものに大きな影響を与えている可能性を検討した。 3 『罪と罰』創作史における一人称から三人称への転換の意味の検討を続け、ドストエフスキーにおいては「三人称への転換=全知の視点の成立」という小説史的常識が必ずしも妥当しないことを確認した。 4 『罪と罰』にとりいれられた1865年のいくつかの殺人事件、『悪霊』に素材を提供したネチャーエフ事件、『作家の日記』で繰り返しとりあげられたコルニーロヴァ事件等に関する新聞記事を検討し、新聞と小説の関係に関するベネディクト・アンダーソンの所説と対比しつつ、三面記事の種を収集する現場のジャーナリストの視点と、ドストエフスキーにおける「噂話とゴシップの媒介」(トゥニマーノフ)としての語り手の視点が非常に近いものであるという仮説に至った。さらに、こうした「ジャーナリスト=語り手」の成立に、速記術の出現によって可能となった新聞紙上の「裁判速記録」という新たなジャンルが影響を与えた可能性に注目した。
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