16世紀から200年以上続いた奴隷貿易は、多くの健康な青年たちとその子孫をアフリカ大陸から奪うのみならず、先祖から受け継いだ文化・生産方法に付加価値をつけ、進化させ、後進に受け継がせるという進歩のサイクルを遮断したのでないか?さらに、その後の植民地政策によって、土着の文化・慣習・知識に、木に竹を接ぐような形で宗主国の制度が導入され、ゆがんだ経済・社会構造が構築されたのでないか?そうした仮説に基づき、フランスと旧フランス領アフリカの経済関係の史的展開を調査している。 本年度は、前者の問題意識に対して、フランスの奴隷貿易の概要を港湾都市ボルドーを中心に執筆した研究ノートを、後者の問いに対して旧フランス領アフリカ諸国の植民地時代からの制度-フラン圏-がコートジボワールの工業化に与えた影響を分析した論文をまとめた。とりわけ、フラン圏の制度の下では、コートジボワールがその経済状況の変化に応じてフレキシブルに為替を切り下げることを困難にすることから、その国の経済成長(経済発展)そのものにマイナスの影響を与えかねないことが明らかとなった。 また、奴隷貿易(三角貿易)を通じてカリブ海から運ばれた砂糖は、港湾都市ボルドーの繁栄に大きく貢献したが、フランス革命を受けて起きたハイチ革命と人権宣言を受けて強まった奴隷貿易廃止運動にまって危機に直面する。ボルドーにおいては、それまでの三角貿易を通じて西インド諸島との交易に従事した貿易商人やその家族が、セネガルといったアフリカ地域へ進出し、ゴム及びピーナッツや油やしのプランテーションから天然油を採取、それを本国に輸出するといった形にビジネスを転換させる動きが過渡的に見られた。その代表的な例に、ボルドー商工会議所等で活躍し、セネガルに進出したMaurel et Promが挙げられる。 アフリカ大陸の分割がなされ、領土が明確化した19世紀末には、フランス政府の強力なバックアップの下、フランス製品をアフリカ大陸の奥地に普及させる商社が台頭してくる。現在は、そのアフリカに進出したフランス商社に関する資料を読み進めている。
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