わが国の戦前期の遊園地が開設された数や場所を具体的に推論するため、明治後期から昭和戦前期に発行された観光案内、地誌等を、当時の行楽事情について俯瞰的に見ることのできる資料と考え、ここから、本研究が想定する遊園地(屋外空間を基調に複合的に娯楽設備を内包し、不特定多数の利用に供する営利施設)と認めうる施設を記述していった。加えて、それら遊園地の関連資料を収集し、整理する作業を行った。 集められた資料から概観すると、戦前期の日本において、遊園地は大都市近郊に限らず各所に存在した様子を窺える。中程度の都市の周縁にも、遊園地かそれに類縁の施設が認められることは、珍しくない状況であったと考えられる。また、都市から遠く離れた行楽地においても、遊園地と称される施設が開発されていた。場所によっては、複数の遊園や類縁施設が連携するケースも認められた。こうした内容を以下に例記する。 仙台、名古屋、金沢などの地方の比較的大きな規模の地方都市においては、遊園地と称される施設が複数確認された。仙台では八木山遊園地、名古屋では船見山遊園など、金沢では粟ヶ島のほかにも数箇所の私営施設が存在した。しかし、札幌では、遊園と称しても、私営でなく実質的には公園という施設で、私営で不特定多数を相手にする複合的な娯楽施設は認められなかった。東京近郊では、既知の施設以外に、浦和と横須賀に、それぞれ、1件ずつが確認された。ただし、詳細については不明である。大阪近郊においては、都市近郊における代表的遊園地に発達した宝塚新温泉について、近傍の中洲楽園、寶梅園など、類縁の遊園施設も同時に複数展開されている様子が窺えた。また、実現は確認されていないものの、関西地方で、新聞の地方版に、鉄道沿線の社寺が遊園地的な設備を以て観光客を招致する企画を報じる記事が散見された。さらに、箱根、別府などの高名な行楽地においてもある程度の規模を持つ遊園地が存在していたことが確認された。具体的には、長瀞遊園、鶴見園などを挙げられる。
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