宋における入宋僧の活動 入宋僧が訪れたのは、南宋五山などで当時盛んだった禅宗の寺が多く、それらが多数存在した西湖周辺の臨安府(杭州)や四明(寧波)であった。北京律僧の俊〓が12ヶ年の入宋中8年を過ごしたのは、これらより北に位置する松江府(現上海市松江県)の超果教院である。超果教院は天台教学の専門寺院であり、このような天台教院では、四明の延慶寺で11世紀末に創建された十六観堂の信仰が深まっていた。北京律僧の湛海が門廊殿閣を再建したという白蓮教寺とは、延慶寺であった可能性が大きく、湛海が将来したと伝えられ、現在の泉涌寺でも信仰の篤い仏牙舎利は、延慶寺が所蔵していた仏舌舎利と呼ばれるものだったとみられる。 宋における寺院と建築の様相 俊〓が滞在した超果教院は、俊〓の遺文にもあるように超果寺天台教院という。中国の史料『至元嘉禾志』(1284年成)によれば、超果寺は唐代に則天武后が建てた長寿寺の後身であり、詩に詠まれる見遠亭という建物があった。また、遺文から超然閣という建物が存在したことが知れ、時代がやや下るが、『江南通史』(1737改訂)によれば、鴛鴦殿、一覧楼、両花堂、見遠亭、西来堂などの建物があり、さらに瑞光井や石假山がある風光明媚な寺だったらしい。超果寺には十六観堂はなかったようだが、『至元嘉禾志』によれば、超果寺の近辺には、延慶教院や真如教院という十六観堂をもつ寺院があった。俊〓が立ち寄った下天竺寺に近い上天竺寺にも十六観堂があり(『宝慶四明志』)、泉涌寺の伽藍は、当時盛んだった禅寺と十六観堂の気風を全面に取り入れたものだったと理解できる。 なお、『松江縣志』によると、超果寺は1949年頃まで存在したらしいが、現状では寺院の建物はほとんど失われたようだ。諸々の理由から、渡航による現地調査は中止せざるをえなかった。
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