超果寺の立地 俊〓が8年間寄寓した超果寺(超果教院)跡は、上海市松江県の松江第一中学校の敷地となっており、仏寺の痕跡をまったく留めていないことを確認した。現地の古老によれば、破壊前の超果寺には、巨大な仏殿が2、3棟あって巨大な仏像が祀られていたという。超果寺は運河が巡らされた平野部に立地し、十六観堂のような池を備えた庭園を造るのに適している。旧超果寺寺地の西方には、17世紀に造られた酔白池という庭園があるが、あるいは超果寺内の庭園を再開削したものではなかろうか。このような立地は、南宋五山に列せられた霊隠寺、天童寺などが、山間部の谷地形を利用しながら池を穿つ構成とはまったく異なる。超果寺と同じ天台教院である上・中・下の各天竺寺も同様に谷地形を利用した立地で、十六観堂があった上天竺寺も、広い庭園を造るのに適した立地とは言い難い。したがって天台教院が必ずしも平野部に立地するとは言えない。大伽藍を平野部の水郷地帯に造る超果寺のような立地条件は、日本では得がたく、寺院の敷地や庭園を含めた宋様式の伝播については、今後、さらなる追究が必要である。 宋様式の伝播・導入の様相 現存遺構からみて、当時の入宋僧は、石塔や磚身木檐塔を含む塔を比較的よく目にしたはずである。これらの塔は上層に登る構造をもつが、このような技術は日本に伝播しなかった。ここから宋様式の伝播・導入は全般として選択的におこなわれたことは間違いない。個々の建築様式でも、室生寺御影堂の木製礎盤や同寺本堂(灌頂堂)は軒反りなどは選択的な導入であり、室生寺再興の経過からその根本は北京律僧に由来するとみられる。したがって、宋様式の伝播・導入は、入宋僧や来朝僧・技術者の活発な往来のなかで、比較的多様な様式・技法がもたらされ、そのなかで選択的に採り入れられたと考えられる。大仏様はその一典型であり、北京律僧は、現在、禅宗様とよんでいる様式の伝播・導入に関与していたのである。
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