化合物・物質の人知による合目的かつ効率的変換は化学の特質であり、最重要分野の一角を占めている。しかるべき方法論さえあればいかなる物質の分子構築も可能であり、真に有用な基本的方法論の開拓は革新的合成法の実現に直結する。本研究者はこの信念の基に研究を行い、分子触媒化学、とくに不斉合成の分野で世界を先導してきた。なかでも、論理的な分子設計から産み出された光学活性ジホスフィンのBINAPを配位子とするルテニウム錯体触媒による官能基化されたオレフィン類の不斉水素化反応は、極めて広範囲の有用物質群を供給する強力な手段を提供している。精密化学工業やライフサイエンス等の応用化学分野に大きな波及効果を与えており、その反応機構の解明が強く望まれていた。本年度は、エナミド基質の一種であるα-(アセトアミド)アクリル酸エステル類を代表基質として不斉水素化機構の解明を目的に研究を行い、所期の目的を達成した。触媒前駆体であるルテニウム錯体は、水素分子と反応してモノヒドリド錯体へ変換される。これにエナミド基質が二座配位して基質触媒複合体となる。直ちにルテニウム上のヒドリド水素原子は分子内に存在するオレフィンのβ炭素上に転位して五員環メタラサイクル構造をもつルテニウムアルキル錯体を形成する。アルキル錯体のRu-C結合は主に水素分子で切断され、生成物の放出とともにモノヒドリド錯体を再生して触媒サイクルが完成する。ルテニウムアルキル錯体の加水素分解が全体の反応速度を決定する。生成物の主・副エナンチオマーは互いにジアステレオ的関係にある同じ機構で生成し、両者のルテニウムヒドリドーオレフィン錯体のエネルギー差によりエナンチオ選択性が決まる。この立体選択性発現機構は、従来のロジウム触媒による水素化反応と対照的である。本研究から得られた様々な知見は、新触媒反応開拓に向けて重要な指針を与えるものである。
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