研究課題/領域番号 |
14J01045
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研究機関 | 京都大学 |
研究代表者 |
劉 迎春 京都大学, 人間・環境学研究科, 特別研究員(DC1)
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研究期間 (年度) |
2014-04-25 – 2017-03-31
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キーワード | 近代内モンゴル / モンゴル人女性 / 女子学校 / ジェンダー / 満洲国 / 蒙疆政権 |
研究実績の概要 |
今年度においては、近代内モンゴルにおける女子教育の理念に影響を与えた可能性が考えられる、日本人のモンゴル人女性観を明らかにすることを目的に、1930-40年代の蒙疆地域に活動した財団法人善隣協会、興亜院蒙疆連絡部、西北研究所など日本の調査機関や日本人の行った調査記録から、日本人がモンゴル人女性をどのように評価していたのかを検討した。これらの記録では、女性がモンゴル人の日常生活を維持する上で重要な存在であったこと、またモンゴル人女性の保健衛生意識の乏しいことやラマ僧に左右されやすいこと、貞操観念の低いことが指摘されており、さらに、それらの問題を改善する具体的な手段として女子教育が提案されていたことを明らかにした。また、日本人の持つ女性観の影響がスニト女学校における教育内容や学校の管理方式にも及んでいたことが分かった。すなわち、スニト女学校の「正しく潔い蒙古民族の生みの母」を養成するという教育目標は、1930-40年代の内モンゴルにおける日本の要請とモンゴル復興運動を色濃く反映したものであったことが明らかになった。
また、徳王が女子教育を重視した最大の目的は、モンゴル社会の政治と経済に直接奉仕する女性を養成することではなく、伝統的な遊牧生活を営むモンゴル民族の母、すなわち「包の母」を養成することを通じて、モンゴルの復興を担う後継者を育てることだったことが分かった。さらに、その開始から終焉まで日本の対内モンゴル文化政策と密接に関わっていたものの、徳王が持っていたモンゴルを復興するという政治的抱負の下で、「包の女学校」は、モンゴル民族の遊牧生活に適する教育を展開するようになったことが明らかになった。これらの研究成果を、それぞれ日本女性学研究分科会や教育史学会において口頭発表を行い、そこで得られた知見をもとにさらなる修正を加えて学術雑誌へ投稿している。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
1: 当初の計画以上に進展している
理由
スニト女学校において、伝統的遊牧生活を営むための教育を受けた女子生徒たちが実際に「包の母」として生きていったのか、そして学校教育が彼女らの生活にとって何を意味するものであったかということについて考察し、より広い範囲で把握するために興安女高のような女子学校のみならず、厚和蒙古族中学校女子部と徳化蒙古中学校女子部など、男子校に設置された女子部との比較検討をも行なった。これは、内モンゴル近代史の中で、女子のモンゴル民族意識がどのように形成され変容したのか、またそれら女子生徒の民族意識が地域や学校によってどう異なるのかを、学校生活の記憶を通じて比較分析した新しい試みとなるため当初の計画以上に進展していると言える。
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今後の研究の推進方策 |
今後は、満洲国の統治下にあった興安女高において具体的にどのような教育が行われたのか、そしていかなるモンゴル人女性を育てようとしたのかという課題を、日本本土における女子学校との比較も視野に入れつつ明らかにして行く。
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