本研究は、荘園現地調査と文献資料の検討から地域社会の復元とその形成過程を明らかにするものである。本年度は、紀伊国相賀荘(和歌山県橋本市)と伊賀国玉瀧荘(三重県伊賀市)の調査を行った。 密厳院を荘園領主とする相賀荘と密厳院と対立していた高野山領である官省符荘は、水利灌漑や山林を共同で使用している。つまり、荘園領主の対立が荘園現地では影響していないという仮説が立つ。この仮説を証明するため、中世以来相賀荘(柏原地区)に残されてきた文書を撮影・翻刻・検討した。その結果、柏原地区は官省符荘内にある山田地区と田畠の売買を行い、近世では水利灌漑や山林使用の取り決めなど、生活に直結する事柄を柏原地区と山田地区は共同で決定していることが判明し、荘園という枠を越えた現地のあり方を想定することが可能となった。 東大寺領伊賀国玉瀧荘の調査では、ため池ごとの灌漑範囲などを調査した。その結果、ため池の灌漑範囲は圃場整備前後でさほど変化がないことが判明した。この点は、圃場整備後にて景観が変容してしまった地域においても、水利灌漑を調査すれば一定度の景観復元が地図上で行える可能性を導き出した。 文献資料の検討では、昨年度から引き続き室町期における興福寺について検討した。その結果、室町期における寺内の問題解決には、朝廷や幕府で権勢を誇る人物を自らの正当性を主張するために活用するということが重要であった、という点を導き出した。 また、興福寺膝下の能登岩井川の用水相論からは、荘園領主が自らの持つ支配権を強く主張する一方で、荘民たちは状況に応じた支配を求めていたことを明らかにした。また、在地領主層である衆徒・国民が興福寺別当と荘民との間を仲介していた点も明らかにした。十五世紀後半から衆徒・国民たちの勢力が拡大していくが、衆徒・国民の荘園現地における活動が勢力拡大の根底にあったという仮説を得ることもできた。
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