ジッドとワイルドにおけるクリスティアニスムについての思索を検討し、それが両者のセクシュアリティの問題意識への表れ方に肉薄した。 プロテスタントの家庭に生まれながらもカトリックに惹かれ続けていたワイルドにとって、カトリックの神はいかなる罪人をも赦す慈悲深い存在として捉えられていた。彼は、芸術家が犯した「罪」や「悪」もまた、芸術を創作するうえでの一つの糧であり、芸術家はそれらを犯すことを恐れず創作しなければならないと主張したが、そこには自らの同性愛という「罪」あるいは「悪」を、彼の芸術にとっての必要悪として認めさせようという思惑を看取できる。ワイルドは、自らの同性愛を「罪」や「悪」ではないと主張するのではなく、あくまでも宗教的な「罪」や「悪」として捉え、それを犯してしまう理由を芸術に求めながら、カトリックの神に、罪深い自身の赦しと救済を願ったのである。 一方、ジッドは、幼少の頃から性的な事柄を本質的堕落の兆候とみなすピューリタニスム的教育の支配下に置かれていた。しかし、1893年と1895年の北アフリカ旅行を通じて自らの性的欲望を解放し、各人にとっての自然な生を生きることの重要性を認めるようになると、彼はピューリタニスムやカトリック等の宗教こそが、規律や慣習によって人々の生を抑圧してきたとして、これらを退ける。そして、福音書においては神が、ありのままの生を肯定する存在として描かれているとして、各人の生の多様性を認め、様々な束縛から生を解放しようとする態度こそが真の信仰であると主張するのだった。ジッドは、自らのセクシュアリティを宗教的タブーではなく、神から承認される一つの個性として捉え、それを謳歌することの正当性を示そうとしたのである。 以上のように本研究は、両作家のクリスティアニスムの差異が、彼らのセクシュアリティについての捉え方に大きな相違をもたらしていることを明らかとした。
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