本年度は、前年度までの研究をもとに、無意識的な利己的動機にかんする倫理的な問題についての検討が行われた。人間が利己的動機からしか行為できないという「心理的利己主義」は事実にかんする説であるが、同時に、その規範的な含意は大きいとされる。というのも、人間が利己的動機からしか行為できないのだとすれば、利己的動機からの行為を禁じる道徳理論の実現可能性が強く疑われるからだ。 ところが、この議論が成功しているかは明らかではない。というのも今日の心理的利己主義研究において問題となっているのは、無意識の非常に深いレベルにおける動機が利己的なものか否か、という点である。ところが、問題となる動機が深いレベルのものであるほど、私たちはそれを内観したり制御したりすることができない。そして多くの道徳理論は、本人が制御不可能なものにもとづいて行為を評価することを禁じている。この点から考えると、心理的利己主義研究が問題にしている「利己的動機」と道徳理論にとって問題となる「利己的動機」は概念的に食い違っており、心理的利己主義が正しかろうと倫理学には何の影響もない、という可能性がある。 以上の理論的検討に加え、本年度は心理的利己主義にかんする思想史的な調査も行われた。19世紀中盤、J. S. ミルは自身の功利主義を擁護する議論の中で、心理的利己主義に与しているとみなせる発言を残している。この心理的利己主義への肩入れは、功利主義に反対するものからも賛同するものからも等しく批判を受けた。この結果すでに1900年ごろまでには、英国哲学の全体の風潮として心理的利己主義は誤りだという評価が完全に定まっている。だが他方で、行動主義をはじめとする還元的色彩の強い心理学理論の勃興と連動する形で、心理的利己主義を擁護ないし再検討しようとする動きもマイナーながら存在したようだ。
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