前年度末に収集したジョンソン大統領図書館のCDM関連資料とフーヴァー研究所のCPD関連資料の分析を進め、1970年代半ばにおけるこれら政治団体の議論において、ソ連によるテロ組織への支援は国連憲章第二条に違反する武力行使でありかつ間接侵略であるとする論理が形成されていたことを明らかにした。他方で、そのような国際法違反に対してこちらも武力の行使で臨んでよいとする後の対テロ戦争の論理は、この段階では部分的にしか存在していなかったことが判明した。 ここで改めて1970年代半ばにおけるランド研究所のテロリズム論を検討し、テロリストを政治的動機に従って行動する合理的存在として描くことが、そのテロリストの活動を戦争のルールの外部において行われる戦争として記述することと結びついていたことを明らかにした。レーガン政権における最初の対テロ戦争論の成立は、CDMからCPDに至るまでの国際法的論理と、ランド研究所において展開された対テロ戦争論が結びつくことによって可能となったという見通しが得られたのである。 この仮説を確証するためにカリフォルニア州シミヴァレーにあるレーガン大統領図書館を訪問し、1983年のベイルートアメリカ海兵隊宿舎爆破事件への報復攻撃と、1986年に遂行された対テロ政策としてのリビアへの空爆に関する歴史的資料を収集した。1983年の事件直後に、レーガン政権の政策担当者がランド研究所の研究者からブリーフィングを受けていたことが明らかとなったので、上述の仮説はおおよそ確かめられた。この時点において三年間の研究をまとめ、1970年代のテロ認識の転回から1980年代の最初の対テロ戦争、9.11テロ後の二度目の対テロ戦争へと至る歴史的経緯についての学位論文として、東京大学大学院人文社会系研究科に提出した。
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