研究課題/領域番号 |
14J10013
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研究機関 | 東京大学 |
研究代表者 |
東 和穂 東京大学, 人文社会系研究科, 特別研究員(DC2)
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研究期間 (年度) |
2014-04-25 – 2016-03-31
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キーワード | 表層性 / 装飾 / 顔 / イロニー / アポロンのヴェール / 虚実皮膜 |
研究実績の概要 |
アンドレイ・ベールイの理論と創作を一つのダイナミックなプロセスとして提示する、という研究目的を実現するため、昨年度は1922年に出版された自伝的小説『変わり者の手記』を中心に、1910年代後半から1923年に至る彼の創作を研究した。このために、事前に立てた研究実施計画に基づき、ロシア国立図書館で資料の収集を行った。 この小説は従来、ナイーヴな私小説か出来の悪い自伝としてしか読まれてこなかった。だが私は、同時期に書かれた哲学的随想『転換期に』や紀行文『旅行記第一巻 シチリアとチュニス』といった理論的性格の強い諸作品と比較対照することで、これらに共通する「表層性」という観点を新たに見出した。そこからこの小説を読み直すなら、作者自身の混乱した意識状態をそのまま反映したかのようなテクストの中に、装飾、線、顔といったモチーフが執拗に反復されていることが分かる。こうした「表層性」の現れは単なるモチーフに止まらず、奇抜な活字配置、即ちエクリチュールのレベルにまで及んでおり、両者が相俟って、テクスト上に奇妙な装飾を浮かび上がらせている。この装飾こそ、目に見える(言葉に出来る)表層と目に見えない(言葉にすることが出来ない)深層との間にあって、目に見えない何ものかを一瞬垣間見させてくれるものなのだ。更にこの小説における自伝的要素でさえも、作者の有りのままの生活を表現するためというよりは、虚構と現実とのアイロニカルな戯れの中で、虚実皮膜の何ものかを暗示するために用いられているということに気が付くなら、この小説そのものを一つの装飾と見ることが出来よう。こうした二項対立は、ニーチェの「アポロンのヴェール」という概念から来ているが、ベールイはそれを実験的手法として小説に応用したのである。私は以上の研究成果を一つの論文にまとめ上げ、『ロシア語ロシア文学研究』第47号に投稿した。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
当初の研究目的においては、昨年度の課題は、ベールイが1912年から1923年の間に書いた諸作品を研究対象とした上で、自伝的三部作をメタ小説として捉え直し、図形的タイポグラフィーをテクストの身振りとして再解釈すること、となっていた。 上記「研究実績の概要」にも書いたように、昨年度、私は『変わり者の手記』を中心とした1910年代後半から1923年までの作品の研究に取り組んだ。これによって、自伝的三部作の最後の作品である『変わり者の手記』が、単なる自伝的小説というよりは、むしろ作者の私生活と虚構とを綯い合わせることで、読者を虚実皮膜の領域へと引き込み、その現実認識に揺さぶりを掛けようとする、実験小説であるということが明らかとなった。更にそうした認識論的目論見を実現するために、図形的タイポグラフィーが効果的に用いられ、言葉の意味レベルでは表現出来ない何ものかを視覚的に暗示している、ということも証明することが出来た。 他方で、昨年度は『変わり者の手記』とその周辺作品の研究に集中した結果、自伝的三部作の全体を統一的に論ずることは出来なかった。既に『コーチク・レターエフ』、『受洗した中国人』については個別に論じたことがあるので、次の課題は、この三つの小説を一つの矛盾に満ちたプロセスとして捉え直すこととなる。こうした点から見て、現状では、私の研究は概ね順調に進展していると言える。
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今後の研究の推進方策 |
昨年度、『変わり者の手記』を分析する上で、同時期に書かれた『転換期に』、『旅行記第一巻 シチリアとチュニス』を参照したが、これによって、これまで余り注目してこなかった新たな課題を幾つか見出すことが出来た。まず『転換期に』には、当時のベールイが熱中していた人智学―もっとはっきり言えばオカルティズム―の影響をはっきりと窺うことが出来るが、それがこの書においては、単なる非合理主義というよりは西洋形而上学批判という文脈において現れていること。更にこの本の中には、「書物の中には民衆がいる」という一節があるが、「民衆」というベールイにとっての「他者」が、言葉の深層において見出されていること。これに対して、『旅行記』においては、アラブ文化への美学的敬意という形で、アラブ人やベルベル人といった別の「他者」達との遭遇が描き出されていること―これら三つの問題である。 「オカルティズム」、「民衆」、「他者」といった問題は、『変わり者の手記』においても重要な位置を占めており、このことから、これらの主題が当時のベールイにとって少なからぬ意味を持っていたことが分かる。これらは全て西洋近代が切り捨ててきたものであり、そうしたものに着目することで近代の矛盾を乗り越えようとしたベールイの試みは、今なお古くなっていないと言える。更に重要なことは、「オカルティズム」といい、「民衆」といい、(非西洋人、異教徒としての)「他者」といい、全てベールイにとっては、言葉の問題と結び付けて思考されている点である。次年度はこうした観点から、ベールイの自伝的三部作を捉え直し、更に時間が許せば、『モスクワ』三部作の研究にも着手しようと思っている。
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