本研究の目的は、司馬江漢(1747-1818)と円山応挙(1733ー95)の制作上の影響関係を明らかにし、日本近世後期洋風画派と写生派との共通性や特異性を見い出すことである。江漢は生涯にわたり長崎や近畿方面に旅行し、道中で多くの作品を制作している。特に、天明8年(1788)から寛政元年(1789)にかけての長崎旅行を記録した『江漢西遊日記』『西遊旅譚』、また晩年の近畿旅行記『吉野紀行』からその様子がわかる。それらの記述に基づき、江漢が西日本で作成した作品や、社寺に納めた絵馬の調査を行い、その中で江漢の近畿方面での制作活動と、円山派との関連について調査を行った。 主に、寛政11年(1799)4月6日に京都で開催された書画会の作品を画帖にした『東山第一楼勝会図画帖』(大和文華館蔵)を調査した。先行研究をもとに、本画帖に書画を寄せた京都の画家たちの中で、特に応挙没後の江漢と同時代に活動した円山派の作品と資料の調査を行った。 また、厳島神社に所蔵される司馬江漢の絵馬《木更津浦之図》についても調査を行った。江漢は生涯にわたり全国の神社仏閣に多くの絵馬を奉納したことで知られているが、《木更津浦之図》は現存する江漢の絵馬の中で奉納時から同じ場所に所蔵される唯一の作例である。実際に明治時代頃まで同神社の回廊に掛けられていた可能性が高く、寛政後期周辺の江漢の洋風日本風景図円熟期に相当する作例であることが確認できた。 さらに上記の考察を進める上で、応挙の若年時代の眼鏡絵様式が江漢の浮絵や眼鏡絵制作に影響を及ぼした可能性を見い出すことができた。
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