明代末葉、勅撰の永楽三大全がその権威を形骸化させていた時代状況下、かかる権威不在の状況を建て直すべく新たな四書註を作成しようとした知識人群が出現した。本研究課麺を遂行する上で着目した張自烈(字爾公、号衍山、江西宜春県人、万暦二十五/1597年〜康煕十二/1673年)も、そうした人士のひとりであり、かれは、明代後半の朱子学系四書註である蒙引・存疑・浅説や陽明学系知識人の著作を参考にしながら永楽の四書大全に対して徹底的に検証を加え、その成果を四書大全辯と題する注釈書にまとめた。 本研究代表者は、この書物の詳しい刊行事情が、崇禎十三年刊の初稿本と順治八年刊の重訂本との二種類のテキストがある該書の、そのいずれの巻首にも掲載される「掲帖序文之類」(四庫提要巻三十七の語)から明らかにできると推定し、斯書の刊行をめぐる当時の政治・出版政策の影響関係や、知識人と官僚や書肆との交流を具体的に解明した。その概略を記せば、明末、四書大全辯は、南京国子監生による工作が功を奏し、礼部の認可を受けた書物として江南(南京・杭州)の書坊東観閣からまず刊行された。その後、監生集団は、この書物を永楽の四書大全に代替させるべく、皇帝による御製の序文を戴いた官刻の書物へと格上げしようとして運動を展開したが、実現を目前に明朝は倒壊、南明政権下でも同様の出版要請はおこなわれたものの、政権内部の抗争に巻き込まれる形で計画は頓挫した。ただし、清朝治下においても、福建の民間書肆や、清朝に投降して大官の地位を得ていた張自烈の盟友・陳名夏を始め多くの知識人が本書の刊行にむけて奮闘した。その結果、同書は南京学院における官刻書として世の中に送り出され、多くの科挙受験者の支持を受けることとなった。 また、本研究代表者は、国内に収蔵される四書大全辯の順治本諸本を比較し、その諸要素の構成にばらつきのあることを明らかにするとともに、同書の構成上の合理性という観点から見た場合、宮城県図書館蔵の順治本が比較的優れたテキストであるとの判断をおこなった。
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