近世人はいかに思想形成してきたのか。その契機として注目されるのは書物である。なぜなら17世紀は、この列島で初めて商業出版が成立・発展し、版本・写本が流通した時代、「書物の時代」の開幕を告げた時代であった。もちろん我々の思想形成を考えれば、それが書物知だけで行われるわけではないことは留意する必要はあるが、書物を抜きにはそれがあり得ないのも事実である。書物が思想形成・主体形成にどのような役割を担ったのかを解明することは意義があろう。くわえて近年の、書物を史料とした近世史研究の新動向が、この研究を行い得る環境を準備してくれたことも指摘しておく必要があろう。文書史料に加えて書物をも組み入れて歴史を叙述できるレベルにまで、近世史研究は到達している。本研究では、これをさらに一歩進め、書物の内容を分析し書物がもつ思想性・政治性を明らかにすることによって、書物が個々人の思想形成にどのような意義を有したのか、追究した。具体的には、軍書、医薬・天文暦書を取りあげた。なぜならこれらは全国各地のどこの蔵書にも見ることができるものであり、さらに言えば民衆だけでなく領主層の蔵書にも見ることができる、最もありふれたものであるからである。いったい軍書や医薬・天文暦書とは、読者にとって何だったのか。こういった書物の読書は思想形成・主体形成といかに関わるのか。軍書と医薬・天文暦書を考察対象とすることによって、領主層から民衆までの広い層の教養形成・主体形成をも視野にいれることができるのである。結論的に言えば、私は、軍書である『太平記評判秘伝理尽鈔』の受容を通じて、その政治思想・理念が領主層から民衆までに共有されることによって近世社会の「政治常識」が形成されたという仮説を提起した。また、軍書に加えて、医薬書・天文暦書も、政治常識の形成に関与するとともに、近世人の思想形成に大きな役割を果たしたことを明らかにした。
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