研究概要 |
日本列島の北方地域の歴史を考える時,アムール川(黒龍江)流域やサハリン(樺太)との接触・交流を無視することはできない。15世紀の初頭,明の永楽帝は女真人の宦官である亦失哈(イシハ)を派遣し,かつ東征元帥府(とうせいげんすいふ)のあったところに奴児干都司(ぬるかんとし)を設置した。以後,明はアムール川流域・サハリンの諸集団に積極的に支配を及ぼした。 亦失哈は,奴児干都司に併設して永寧寺(えいねいじ)という寺院を建立し,この顛末を記した石碑を建てた。これを「勅修奴児干永寧寺記」といい,立石は永楽11年(1413)のことである。この寺は現地の先住民によって破壊されていたが,その後,亦失哈によって再建された。亦失哈はこのことの経緯を記した「重建永寧寺碑記」を建てている。 現存する,あるいは採拓されたことが確認できる拓本は,1.金毓黻(きんいくふつ)旧蔵拓本(写真),2.白鳥庫吉旧蔵拓本,3.市立函館博物館蔵拓本,4.内藤湖南旧蔵拓本,の4種類である。このうち1は,拓本そのものではなく拓本の写真であり,2は今のところ所在不明である。3は,先ごろ本研究のなかで存在が確認された。3は,日本では最も採拓の時期が古い拓本である。これまで最も良い拓本とされてきた4に比較すると,やや墨が薄く,拓影の状況は必ずしも良好ではないが,デジタル技術を利用することにより,これまで判読が難しかった文字をいくつか確定できた。今後も,基本となる碑文の釈文の確定を進める予定である。
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