研究概要 |
日本列島の北方地域の歴史を考える時,アムール川(黒龍江)流域やサハリン(樺太)との接触・交流を無視することはできない。15世紀の初頭,明の永楽帝は女真人の宦官(かんがん)・亦失哈(イシハ)を派遣し,ティルに奴児干都司(ヌルカンとし)を設置した。以後,明はアムール川流域・サハリンの諸集団に支配を及ぼした。 亦失哈は,奴児干都司に併設して永寧寺(えいねいじ)という寺院を建立し,この顛末を記した石碑を建てた。1413年の「勅修奴児干永寧寺記」と,1433年の「重建永寧寺碑記」である。 今年度は,ウラジオストークの沿海地方国立アルセニエフ博物館に収蔵されている二つの碑を実地に調査した。重建永寧寺碑は摩耗が激しいと聞いていたが,原石を調査した結果,堅い花崗岩に文字が刻まれていることがわかった。ただし,岩が硬いためか文字の彫りは浅く,拓本を採るには適していないと思われた。そこで,3次元デジタイザを利用して石碑の三次元データをパソコンに取り込み,さらにCAD(Computer Aided Design)システムを利用して,コンピュータの画面上で影をつけるなどの処理を施した上での判読を試みることを計画している。 また,ロシア科学アカデミー極東支部歴史・考古・民族学研究所付属の博物館と,ハバーロフスク博物館では,アムール河下流域の中世遺跡出土の考古学資料を調査し,当該地域の遺物群の実態について全体像を把握した。
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