研究課題/領域番号 |
15320107
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研究機関 | 三重大学 |
研究代表者 |
山中 章 三重大学, 人文学部, 教授 (40303713)
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研究分担者 |
廣岡 義隆 三重大学, 人文学部, 教授 (40098512)
山田 雄司 三重大学, 人文学部, 助教授 (90314103)
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キーワード | 聖武天皇 / 伊勢行幸 / 朝明頓宮 / 久留倍遺跡 / 壬申の乱 / 伊勢国一志郡 / 伊勢国朝明郡 / 万葉集 |
研究概要 |
聖武天皇伊勢行幸地の研究も2年度に入り本年度は朝明頓宮の有力推定地・三重県四日市市大矢知久留倍所在の久留倍遺跡の発掘調査を中心に研究を進めた。朝明頓宮は聖武天皇が天平12(740)年10月29日突如として平城京を離れ、伊賀・伊勢・美濃・近江を巡幸した際鈴鹿郡の赤坂頓宮の後にはいた場所である。。朝明郡にやってきたのは11月23日のことで、天皇はこの地で「妹に恋ひ 吾の松原 見渡せば 潮干の潟に 鶴鳴き渡る」という歌を詠んだことが『萬葉集』から知られる。壬申の乱の際に大海人皇子がたどった道を意識して東国行幸を続けた聖武天皇は、高台から伊勢湾に臨み、68年前の曾祖父の姿に想いを馳せたのではないだろうか。 大海人皇子(後の天武天皇)は、672年6月24日に幼い皇子達と妃のう野讃良(うのさらら)皇女(後の持統天皇)とともに吉野宮を脱出、伊勢湾を北上して美濃に向かう。いわゆる壬申の乱の開始である。24日夕方から25日にかけては最も危険な状態で、伊賀国を強行軍で突破し、「鈴鹿郡家」に到達する。ここで伊勢国守・介(伊勢の国の長官・次官)らが大海人皇子に従うことを表明し、ようやく一段落する。26日、大海人皇子は迹太(とほ)川の辺で天照大神を遙拝して戦意の高揚をはかった。日が昇る東に向かって眼前に広がる伊勢湾に臨み、日の神・天照大神に勝利を祈願したのである。その地がどこかについては多くの議論があったが、2001年から進められていた久留倍遺跡の発掘調査によってその地を限定することが可能となってきた。調査の結果同遺跡は、朝明郡衙及び朝明郡正倉跡であることが判明した。その上さらに両施設が建設される間に大規模な建物群が作られていたことも明らかになり、これを聖武天皇の朝明頓宮跡に比定する意見が出された。聖武天皇が大海人皇子の足跡を辿って、伊勢国に入ったことは定説化しているが、仮に久留倍遺跡第II期の遺構群が朝明頓宮であるとすると、大海人皇子の進軍ルートも自ずから明らかになる。 本科研費による発掘調査は、朝明頓宮の可能性をより確実にするため、文字資料の確認を最大の目標として実施したものである。調査の結果、木簡などは発見できなかったが、久留倍遺跡の奈良時代の利用地区が北部から東部に限定できることが明らかになった。 今後さらに地域を限定して文字資料の発見に努める必要があると考えている。またその他の行幸地についても調査研究が必要となっている。来年度以降の課題である。
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