研究概要 |
我が国最古の盛上構造物である吉野ヶ里墳丘墓(B.C.50年頃)は異なる土を層状(版築状)に高密に締め固められている.この古代土木技術(盛土構築技術)のルーツを明らかにするのが先の研究,「日本の古代土木技術(盛土構築技術)のルーツとその変遷-中国・江南における土〓墓から吉野ヶ里墳丘墓まで-(平成12年度〜平成14年度科学研究費補助金補助金(基盤研究B))」であった. 本研究では、吉野ヶ里墳丘墓の直接のルーツであると考える江南の土〓墓のさらなるルーツ、源流はどこなのか、版築の技術のルーツはどこのどれかという大きな課題に焦点をあてた.このために長江下流の江南,良渚文化時代(B.C.3300〜2200年)を含む長江中上流域の盛土遺跡の調査,続いて,山東省済南周辺の龍山文化時代(B.C.2500〜2000年)を含む黄河流域の多くの版築盛土遺跡の地盤調査を行った. その結果、長江中流域の城頭山遺跡(B.C.3500年)が最古の城壁であり、大量の土を乱雑に締め固めた堆築であり,以降戦国時代の大型土とん墓に到るまでは基本的には堆築ではないかと考える.一方,細粒の黄土からなる黄河流域では、仰韶文化時代の西山遺跡(河南省)(B.C.3300〜2800年)が最古の城壁である.山東省における岳石文化時代(B.C.2000〜1500年)以降に、黄河流域では一定間隔の水平な層状断面の版築盛土遺跡が構築されるようになる.両河川流域の技術の伝播や交流については未だ不明である.最近,山東省の海岸側で土〓墓(前漢〜後漢時代)が発見されている.吉野ヶ里墳丘墓の直接のルーツは江南の土〓墓かそれとも山東省の土〓墓か?これを判断するには現地における地盤調査を初め、さらなる研究が必要である.
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