申請者は本研究において、「マケドニア」における民族意識の形成過程を、歴史的状況や地域的特殊状況を踏まえつつ、人々の意識(個人的アイデンティティの次元)バルカン半島における「国民国家」形成次元、そしてそれらを取り巻く国際関係の次元、それぞれの相互関係性に着目して、実証的に明らかにすることを目的とした。考察に際しては、検討時期を第一次世界大戦直後から1924年までに限定し、かつ検討対象をマケドニア運動の動向に絞った。 本研究報告書は、以下の三点を研究成果として確認した。 1.第一次世界大戦直後の国民国家体系において、「マケドニア問題」は、領土問題から少数民族問題へと本質的に転換した。その後、マケドニア運動は、国境線によって分断されたマケドニア地域の統一を志向して国民国家体系に異議申し立てを行うとともに、その中で多様なマケドニア意識に基づいた多様な運動が展開したことを確認した。 2.マケドニア運動の主な担い手のひとつであった「内部マケドニア革命組織(英語の略称IMRO=イムロで知られているが、本研究はBMPO=ヴムロと略。)」は、ブルガリア政治と結びつく一方で、いわゆる国民国家体系の基盤となる自決権の主体としての「民族」とは別のあり方の可能性を、バルカンにおける連邦主義と結びついて、示唆していた。申請者は、外部からの影響力すなわち国際関係要因だけでなくマケドニア内部からの葛藤や矛盾が交錯する多様なマケドニア意識の模索の中にこそ、1920年代前半のマケドニア運動の特徴と、そこで使用されていたnarod概念の可能性があったことを確認した。 3.ただし、その可能性は、1924年のBMPOとコミンテルンとのやり取りの中で、地域的な概念としての「マケドニア」が、やがて民族的な意味を含有する「マケドニア人」へと変容する過程に吸収されていった。このとき改めて「民族」としてのnacija概念が使用されていくことを、「五月宣言」の成立とその公開をめぐる一連の経緯の中で、確認した。
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