本研究の主要な目的は、19世紀後半にフランス・マラヤ・日本の女子教育に大きな足跡を残した修道女メール・マチルド(1814-1911)の97年に亘る生涯を縦糸に、彼女の所属した修道会である幼きイエス会が設立した3ヵ国のミッションスクールの歴史を横糸として、同時代・3ヵ国の民衆の社会史を横断し、教育による「民際交流」を明らかにすることにある。平成17年度は、現在までに収集したメール・マチルドの手紙や同僚の修道女による修道会の活動日誌などの一次資料の分析を中心に研究を進めた。 マチルドたちがヨーロッパからの女子修道会のミッショナリーとして初めてマラヤの土地を踏んだのが、1852年であった。その後の日誌を読むと、何人もの修道女たちがマラヤや日本の地で短い命を落としている。現在とは比べるべくもないほど、苦難に満ちた長い旅を経てアジアに向かい、そこで女子教育に命を捧げようと彼女たちが思ったのはなぜか。資料を読みながら最も興味を惹かれたのが、なにがそこまで彼女たちをアジアへ駆り立てたのか、という点であった。 1830年の7月革命以後、カトリック教会は政治の場面から撤退を余儀なくされた。しかし、7月革命の自由主義の影響はカトリック教会にも及び、ブルジョワの宗教回帰がみられた。特に女子修道会が興隆し、上垣豊によれば「19世紀のフランス・カトリシスムの特徴のひとつは「女性化」が進んだことである。カトリック教会は社会の再キリスト教化のために戦略的に女性を重視した。」(『近代フランスの歴史』谷川・渡辺編、ミネルヴァ書房、p.115)そして、女子修道会は修道院に籠もるのではなく、福祉や学校教育へと社会のなかで活動の場を拡大していった。修道会に入会することは、もちろん信仰心の発露であることは確かであろうが、同時に若い女性たちが自己実現の場を求めて、現代の感覚でいうと「就職する」というような意識で入会したのではないだろうか。そしてアジアへ向かったのは、カトリック教会の要請もあったが、ちょうど19世紀フランスのベルエポック時代のジャポニズム・ブームなども彼女たちの意識を東洋に向けた要因のひとつであろう。 今後はこの3年間の研究をひとつの出版物にまとめていきたいと考えている。
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