3年の研究のまとめとして、キェルケゴールの伝記に関わる対レギーネ関係の問題と、そこから彼の実存思想の問題点として、女性を対等の他者として認めず、そこに人間関係や倫理の問題における不自然、不都合が生じることを中心に、キェルケゴールとレギーネの関係の「不幸」を新しい視点で考察する発表を、国際学会で行うことができた。それは、第一にキェルケゴールのレギーネに対する関係の不幸の根源が、彼の他者理解に存し、そのことがキリスト教的な隣人愛や対等の立場での人間の交流を不可能にする形で働いたこと、無論彼の隣人愛の思想にはそれを超えるものの萌芽が見られるが、彼は生前にはそれを実現できなかったこと、従ってレギーネの立揚から見れば、キェルケゴールの愛は一方的で一面的なものでもあったことを指摘した。このことは、従来のキリスト教理解における神関係が、しばしば対等の隣人関係と両立しがたく思われたことを象徴している。それは彼の影響を受けた森有正などにも類似の例が見られる。 これに対しエディット・シュタインは、女性の特性を「行動的共感」に見出している。これは注目すべき概念である。エディット・シュタインは現象学から出発しキリスト教スコラ学と神秘主義への道を見出したが、その中で彼女は、たえず人間が自己であると共に他者に開かれた存在であり、唯一の他者としての神とのかかわりが本質的に他者との共感関係を作り出すことを指摘する。エディット・シュタインの「女性論」はわが国ではまだ全訳が出ていないが、それを精読することで、ジェンダー論が単に社会的性決定の問題でなく、女性、男性という本質にかかわり、しかもそれが人間としてのより深い人間理解に向かうことを示唆している。無論エディット・シュタインの議論には時代的な限界も見えるが、何よりも他者への共感論を中心としたキリスト教理解は、従来のキリスト教の女性論と一線を画するといえよう。
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