今年度はアリストテレス『形而上学』VII巻3章の研究として、質料と基体の問題について独自の見解を得ることができ、研究会での討議を経て、論文として発表した。(「基体と質料:アリストテレス『形而上学』Z3研究」(北海道大学文学研究科紀要110、2003.7)なお第七回ギリシア哲学セミナー全体テーマ「アリストテレスの自然学」(於、学習院大学2003.9)に招かれ、アリストテレスにおける力と運動につき発表し、そのさい『形而上学』IX巻1-5章における力と可能態について独自の見解を持つことができた。これは「アリストテレスにおける力と運動-可能態、完全現実態そして現実活動態-」という論文名として今年度中(2004.3)に電子出版される予定である。これらの研究と平行して、関連箇所の翻訳に従事することができた。 個々の成果について述べる。『形而上学』VII.3において、基体は次のように定義される「基体とは他のものがそれについて語られるが、そのかのものそれ自体はもはや他のものについて語られないところのものである」。ここで「もはや・・ない(meketi)」という表現により述定系列の究極の主語のことが「かのものそれ自体(ekeino auto)」という語を伴い指示されている。基体の定義が「究極主語基準」と「自己同定基準」とでも呼ばれるべき二つの基準により構成されていることを示している。質料実体論者が吟味されるが、彼らの説が内属性基準と呼ばれるものと究極主語基準を満たすものの、自己同定基準を満たさないことが論証され、質料が実体とみなされえないとされていることを明確に論証することができたと考えている。 『形而上学』IX巻において、可能態と現実態という形而上学的原理が主題として論じられるが、これまで正しく判別されてこなかったエネルゲイア(私訳では「現実活動態」)とエンテレケイア(「完全現実態」)が明確に判別されることを論証した。
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