アリストテレスは『形而上学』中心巻において「端的に語られる存在(ある)」についての探究を行っているが、これは「存在者」が語られる局面とは異なる次元を開くことでもある。ここでの「端的に語られる」という特徴づけは存在者の次元とは別に語られる局面のことを言う。「存在」と「存在者」の関係は明確にされねばならない。他方、存在の範疇分類の第一に挙げられる「実体」は「端的で第一の存在」と言われる。範疇が「存在の諸類」とされる限りにおいては、ここでの「実体」は範疇存在としてのそれであり、具体的な存在者のことではない。アリストテレスはそれを「実体とは何か(tis he ousia)」(1028b4)と「何が諸実体か(tines eisin ousiai)」(1028b28)と、定冠詞の有無により判別している。中心巻では端的な存在である実体の何かが問われ、それを開示することにより、存在すると言われるもろもろの存在者の存在を理解しようとする。具体的には「存在」が「いかに語るべきか」という視点からさらに「なる」との対比においてVII巻では探究され、IX巻では可能態と完全現実活動態および現実活動態との対比において探究されている。後者の存在分析は「ある」と「なる」の関わりを明らかにする営みである。「可能態および完全現実態に即して」は「働き[現実活動態]に即して」と組をなし、存在分節として対比されている。可能態および完全現実態そして働きの組は「運動に即して」なされる存在分析であるのに対し、「可能態と現実活動態」の組は運動をも含めそれより広い存在領域をカヴァーする(cf.1050a21-23)。何かが現実活動態においてあるなら、それは常に完全現実態においてもあるが、通常「現実活動態」は「完全現実態」を包摂することから、現実活動態の一部分である作用面を、運動が問題になる文脈において確定し、完全現実態と判別するために用いられている。他方、「或る存在者」が完全現実態においてあり、他の何かの可能態においてもあることを妨げるものはない。何らかの完全現実態においてあるものだけが、何か他のものになることができることを突き止めた。
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