デリダの中期から後期にかけての芸術論における表現であると同時に返済を意味するrendreという言葉に予示された他者性と責任という概念は次のようなものである。 まず責任という概念は、痕跡という原エクリチュールに対する責任であり、われわれに見ることを可能にしているものは見ることのできない非現前的なものの負債であり、手探りをして進む盲者のように画家は自らの手探りの尖筆によってその負債を証示しなければならない。しかし、非現前的なものは現前的なものとして表現されることはできないから、円環の内部に円環全体を包み込む「部分と全体の合わせ構造」(mise en abyme)によってそこに「深淵」(abyme)を切り裂くことしかできない。芸術家はこのような行為によって、生成を生成以前に向かって遡行する。それは自ら親しんだ国境を超えて異邦化することであり、そこに他者性が生じる。 この他者性と責任という概念が有する倫理学的意義は、芸術における深淵を切り裂いて生成したものから「誕生以前」へと遡行するという行為が法という制定されたものから法の前史や法外なものに目を向けさせる事にある。それは社会的に共有される契約的諸関係や権利・義務関係に対し、それに先行する「前-起源的信頼性」に向かう特異的な実践であるといえる。そして、このような実践は、「前-起源的信頼性」が「痕跡」という非現前的なものである以上、普遍的な理論とはなり得ず、哲学における脱構築的実践や芸術家家における証言となるほかないのである。この意味において、デリダの芸術論は、今日の政治的布置においていかなる「証言」を続けてゆくかという、極めて政治的かつ倫理的実践と結びついている。
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