時間論に関しては、「過去」に関する実在論とはどのようなものであるべきかの考察を行った。大森荘蔵の時間論と勝守真による大森時間論の批判的検討を題材として、反実在論的な過去論(想起過去論)を実在論的な方向へと近づけていく「運動」を記述し、過去の過去性の最深部へと接近する試みを行った。その結果、過去の過去性とは、想起過去・想起逸脱過去・想起阻却過去という三層が織りなす重層性であることを明らかにし、現在から発している能動性のベクトル自体が、そのベクトルの及びようのない「無」の方から受動的に生み出されていると見ることに等しい相にまで至ることを示した。 相対主義論に関しては、相対主義の起源的形態である「人間尺度説(プロタゴラス説)」の可能性の先端を探究する考察を、プラトンの『テアイテトス』の読解に基づいて行った。プロタゴラス説(相対主義)を、ソクラテス的な解釈から解放することによって、個人以前から始まっており人間という枠をも超える射程を持つものとして捉え直した。すなわち、あらかじめ失われている絶対性が転移し続けること、そしてそれに伴って相対化が繰り返されること、そのプロセスの全体こそが、プロタゴラス説(相対主義)のあるべき姿であることを明らかにした。そのプロセスとは、「現れ」による真理空間の開設という第一段階、「現れ」という全体の局所化という第二段階、ソクラテス的な「各人」の段階、そして外側で働く「私たち」という段階を辿るものである。そして、この「私たち」という意味論的な絶対域が相対化されるのが、「無関係性」が最大化する過去や未来という時間においてであることを示した。
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