本年度は中国浄土教者の停止思想、特に善導の衆生観や、曇鸞の「真仏土」=「無為涅槃界」("色も形もない"さとりそのものの世界)という特異な浄土解釈が、親鸞の浄土観の成立に際していかなる役割を果たし得たかを主たる研究課題とした。 成果は主に次の二点である。 まず善導が『観経疏』の中で行った「抑止門」釈によれば、「五逆・謗法」等の罪深い衆生もまた"往生"し得るが、その往生は-三宝を見聞できない等の-制約を被っており、真の往生のためには自らの罪を懺悔し、阿弥陀仏へとわが身をゆだねる「回心」こそが肝要とみなされていた。しかもその人間観は「無始己来」の果てしなく長い時間を背景にもつため、「五逆」等も今生の罪に限定され得ない。したがって懺悔は-その対象が無際限に広がるとともに-すべての衆生に求められる往生「行」としての位置を占めてもくる。「抑止」は文字通りには衆生の罪を"くいとどめる"の意だが、その実質はこのように衆生を己れの罪の懺悔へといざなうものなのである。 さらに曇鸞の『浄土論註』にもとづき、衆生がひとたび浄土往生を果たした後、再び此土に戻り、衆生教化に尽くす(「往還二廻向」)というダイナミックな往生観が、「無為涅槃界」という多分にスタティックな浄土観とどう関連づけられ得るのかを明らかにした。「無為涅槃界」は、浄土願生者に即して、数々の荘厳を具えた形で立ち現れるという性質を併せもち、それら荘厳の感受を通じて往生者は-今生の諸制約から解放され-真に仏道を歩み得る(「自利」の面)と解されていた。とともに、他の衆生を救済するという「利他」の面でも、真の慈悲心は浄土に往生して初めて発起し得ると解されていた。すなわち「無為涅槃界」という窮極の存在に重きをおくために一見きわめて静的にも映る曇鸞の浄土思想は、むしろその徹底さゆえに、衆生に真の自利・利他行の貫徹を求めてやまないという構造をもつのである。
|