本研究は親鸞の浄土観を(1)時間軸、(2)空間軸、(3)構造、という三つの視点から分析することを目的とし、最終年度である本年は(3)に研究の主眼をおき、親鸞が「化土」という思想を構築する際に直接・間接の典拠とした経典論釈等の分析を通じて、その構造を総合的に明らかにすることをめざした。 主な成果は以下の通りである (1)『教行信証』「化身土巻」の「外道」論に注目し、「真」と「仮」と「偽」という独自の"教判"の意義を究明、中でも「化土」という独自の浄土を「仮」の方便として設ける意味を考察した。 (i)「偽」とされる「外道」もまた衆生の煩悩を端的に刺激するだけではなく、神通力や一種の<境地>を提示することによって仏教者を魅了し、知らず識らずのうちに仏道から顛落させようとする。「真」たることはこうした「偽」的なありようから常に身を遠ざけようとし続ける営為なくしてはあり得ないのだが、「偽」は己れの外部にではなく、むしろ内なる煩悩に根ざしていることから、煩悩との対峙ならびに懺悔を不可避の契機とせざるを得ないことを明らかにした。 (ii)「化土」はまさしくこうした「偽」的なありようから仏道者を救い出す手だてであるが、その浄土は"いろ・かたち"という「有相」性を残存させるため、「仮」を「真」と思いなしたままに、煩悩に対して盲目的な状況を作り出す陥穽を具えてもいる。その意味で「仮」に閉塞することなく「真」へと開かれていくことは尚更に困難ではあるが、まさに「仮」を「仮」と弁え、「自力」へと自らを偽ることによっていわばその正体を明らかにした煩悩と向かい合うことなくして「真」へと至る方途はあり得ないことを論じた。 (2)(1)で論じた"「偽」→「仮」→「真」"という過程は、親鸞自身に即すれば「三願転入」のもつ意義にかかわってくる。そこで、あらためて.「三願転入」論がどのように位置づけられるべきかにいて検討し、とりわけ"「仮」→「真」"という局面において二十願が果たす独自の役割(「果遂の願」)を論じた。
|