本研究では、"色も形もない"「無為涅槃界」という浄土(「真仏土」)に加え、"仮の浄土"である「化身化土」という特異な浄土を「方便」として構想するに至った親鸞の思想的特質を、(1)中国浄土教の観点(時間)、(2)日本の浄土思想との対比(空間)、(3)親鸞思想の全体像との関連(構造)という三方向から倫理思想史的に解明した。 1 曇鸞の「無為涅槃界」は、「法身」という阿弥陀仏の根本性格と対応し、そうした時空に依拠しない非制約性を根拠にして初めてダイナミックな衆生救済が可能になるという構造が親鸞の浄土観の中核となり得ていた。また善導の「抑止門」釈では、煩悩具足ゆえにこの「真仏土」を直に希求しえない衆生に対し懺悔が、いわば往生行として厳しく求められており、親鸞の思想形成において大きな意義を担っていた。 2 仏教説話集に描かれる浄土像は総じて、今生の諸価値の量的拡大の上に構想されており、その限りで今生との連続性をもつが、そうした願望の生々しさが浄土像の制約をなしてもおり、それゆえ時にひとは、いわば透明な<境地>へと願望自体を昇華し安定をはからざるを得ない。親鸞が「化土」を構想し、同時にそれとは異なる「真」の浄土をたてるに至った背景にはこうした通念並びに浄土への希求がもつ構造的な問題が存在していた。 3 『教行信証』「化身土巻」における「外道」論に注目し、「真・仮・偽」という独自の"教判の意義を究明した。「偽」たる「外道」もまた、神通力や<境地>を示して仏教者を惹きつけ、仏道から顛落をはかる。「真」たるにはこうした「偽」的なありようから常に身を遠ざけることを要するが、その根源には自己の内なる煩悩があるために、煩悩との対峙並びに懺悔が不可避となる。衆生を「偽」へと靡かせ、また「仮」へと閉塞せしめかねない煩悩の存在は手強いが、「化土」が方便とされることの真意は、そうした「自力」において煩悩がいわばその正体を明らかにされるところにあった。
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