平成15年度は、ブラウワーの哲学的側面を、Heyting以降の現代的な直観主義・構成主義からいったん切り離す形で再構成し、そこにどのような見解が含まれているかを明らかにしようと試みた。その結果、第一に、主観的観念論的、あるいは独我論的として通常切り捨てられるブラウワーの言語観・社会観・他者についての見解は、そのすべてではないにしても、かなりの部分が現代哲学的な観点から十分理解可能なだけでなく、現在もなお通用する問題提起を含むことを明らかにできた。具体的には、ブラウワーの論理学批判は、現在、規則遵守のパラドクスとして知られているものを逆方向から照射する構造を持っており、そのことから規則遵守のパラドクスそのものが行為に関する可能性概念と言語的構成に関する概念的可能性概念との齟齬に基づくパラドクスであることが明らかとなった。また、ブラウワーの選列理諭の中にもこの構造が反映されていることを確認することができた。第二に、ブラウワーは、直観主義が意味論的な観点から理解されるようになる以前において、きわめて強力な言語・論理批判を展開するが、これは必ずしも言語的コミュニケーションを全面的に否定するようなものではなく、概念指向的言語観とでもいうべきものの批判であることがわかる。その一方で、彼はコミュニケーション行為としての言語観を保持しており、彼がこうした二つの言語観を対比し、その上で一方を拒否し、他方を承認していたと見ることによって、彼の全般的な哲学の少なくとも相当部分を整合的に理解することが可能になる。本年度は、さらに、こうした「行為としての数学」というブラウワーの直観主義が、その後の構成主羨的な哲学とどのように接続されるかについて部分的な検討を行った。
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