研究期間を通じて明らかにできたのは以下の諸点である。(1)ブラウワーの哲学は一見するときわめて観念論的・独我論的であり、従来の直観主義研究においては、直観主義の数学および論理の体系とブラウワーの哲学とを切り離し、前者のみを研究対象とするのが通常であった。しかし、本研究では、数学における言語の使用に対するブラウワーの批判を必ずしも観念論的に解釈する必要はなく、むしろ言明によって表現される内容とその内容の獲得プロセスとの分離不可能性の要求と解釈できる、という点が明らかになった。この解釈により、数学・論理の体系とブラウワーの哲学とを一貫した形で理解できるようになった。(2)内容と内容獲得プロセスの分離不可能性の要求は、数学を概念的操作のシステムとしてではなく、心的行為のシステムと見るブラウワーの基本見解に基づいているが、ここからブラウワーが可能性概念について二つの異なる概念---概念的可能性と行為的可能性---をもっていたことがわかる。そして、二つの可能性概念の相違を一種の仕掛けとして自覚的に操作することによりブラウワー独特の選列概念に到達することができる。したがって、内容とプロセスの分離不可能性の要求は直観主義解析学の基礎を与えているということが判明した。(3)内容とプロセスの分離不可能性を要求することの根拠は、ブラウワーが特定の内容に到るための個人的プロセスや背景を重視したことに基づいている。したがって、次の問題として、そのような個人的プロセスや背景を保存することの認識的な意義は何かという問題が生じてくる。現在のところ、この問いに対する解答としては「パースペクティヴの共有」という言い方しかできないが、この「パースペクティヴの共有」という認識的な概念を単なる言語的コミュニケーションを超えたものとして位置づけることによって、ブラウワー哲学の全く新しい解釈が成立しうる見込みが得られた。
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