中国を含めて、西洋の学術文化の導入にあたっては、次の3つに大きく分類できる。 1.中国の伝統的学術観においては、中国の学術体系(中学)は絶対であり、西洋の科学技術・文化(西学)は伝統的学術の体系を補完するものと位置づけられる。この場合、中学自体は検証を要さないが、西学は個別の事柄について、中学による検証を必要とする。(中体西用論モデル) 2.西学が絶対であり、中学は西学の中で検証される必要がある。(全面欧化モデル) 3.人類共通の普遍的なレベルの文化的基盤を措定し、その上に個別性をもつ、中学の体系と西学の体系が存在しているとする。この場合、双方が完全に対等でない場合もあるが、原則として相互に検証を必要とする。(並立モデル) 従って、従来否定的に捉えられて来た、1の「中体西用論」「附会論」「中源論」は、当時の知識人階層の知の体系における「自己のもの」=「正しいもの」というパラダイムでは、伝統的な中学の体系に、西学を位置づけようとすることが当然の所為であって、否定的に捉えるべきではない。 従来の日本で中体西用論が誤ってとらえられた原因は、日本の近代化においては2全般欧化が主流であり、それは即伝統学術否定であったことによる。 日本の明治中末期の国粋主義(国学)は、全般西化=伝統学術否定に対するアンチテーゼであった。しかし中国にあっては伝統学術否定というプロセスを経ていないため、当初は伝統的な知の体系の補強という意味合いを果たした。その後、中国の知識人は諸列強の圧迫の中で苦しむ政治的情況の中で、誇るべき「国民的遺産」としてふたたび伝統学術を重視するようになり、伝統学術(中学)を「経学」ではなく「国学」と呼ぶようになった。この場合に措定されているモデルは1の中体西用論モデルではなく、3の並立モデルである。 従って中国の国学は1の中体西用論モデルから3の並立モデルへの移行であり、日本の国学は2の全面欧化モデルから3の並立モデルへの移行であり、そのことが日本と中国の「国学」の違いを生み出している。
|