正統論と道統論の問題は、忠誠の対象とすべき政権の正統性はいかに認知されるのか、道徳的価値は政治権力からどれくらい独立できるのか、などの根元的問題に関わり、またその東アジア的展開を見ることは、現代まで尾を引くこの地域における政治と道徳のあり方の地域的個性を明らかにすることにつながる。そもそも朱子学の正統論と道統論は自明のことのように言わてきたが、朱子学の原資料をもとに分析すると、通念とは異なる姿が見えてくる。本研究では、まず朱子学の正統論と道統論の実像を原資料に基づき検証し、そこから現れてくる正統は道統的要素を介入させず純粋に政権の問題として提示された内容であることを確認した。また一方で朱子学では道統論を立てて道の伝授を政権の問題から独立させ、万人が参画しうる道統に独自の価値が持たされていることを明らかにした。このような朱子学の正統論には種々の批判が現れたが、その中で正統における道義性の欠如を非難する明の方孝濡の批判は朱子学の正統論とともに、日本の江戸時代において正統と道統の関係の議論の下敷きになった。江戸時代以前では、南北朝時代の北畠親房の正統論が有名で、一般的には朱子学の影響を受けているように言われるが、実際にはむしろ仏教の伝灯論の影響が強い。それが江戸時代になると、朱子学の正統論と方孝孺の議論の両者の亀裂の認識をもとに、改めて北畠流の正統と道統の統一体としての皇統論が再理論化されて提示されていくのである。本研究では具体的には浅見綱斎を始めとする崎門を取り上げ、皇統論の理論化の過程と意味を追求した。また中国でも元から日本における正統論に似た治統論が登場するが、その性格を分析して日本の正統論との差異を明らかにした。これらの作業を通して、朱子学という極めて普遍的性格の強い思想が日本に入ると、日本の地域的特殊性を自己認識させていく作用を呼び起こす過程の一端が明らかになった。
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