チベット撰述の複註における"don rnam"(対象行相)と"shes rnam"(認識行相)という概念を参考にして、『現観荘厳論』に説かれる実践の「現観」の対象である173行相の特徴を考察した。 チベットには、『現観荘厳論』に説かれる173行相を対象行相と認識行相という操作概念で註釈する伝統がある。14世紀に活躍したプトン・リンチェンドゥプの『阿含の穂』では、173行相を四諦の別にしたがって分類し、そのうち苦諦と集諦の対象行相と認識行相は別体であり、滅諦の認識行相が対象行相と同体かは断言できず、道諦の認識行相は対象行相と同体のものと別体のものの両方があると説いている。14世紀に活躍したニャオン・クンガペルは、『現観荘厳論』の173行相はすべて認識行相であると解釈する。14世紀から15世紀にかけて活躍したタルマ・リンチェンもまた173行相はすべて認識行相であるとみなす。 他方、17世紀から18世紀にかけて活躍したジャムヤンシェーパは、対象行相を「瞑想時の対象のあり方」、認識行相を「三種の全知の173通りの認識のあり方」と規定した上で、さらに「三種の全知の173通りの認識のあり方を模倣して自らの捉え方とする菩薩の加行の173通りの認識のあり方」という新概念を提唱する。すなわち認識行相に、三種の全知のものと、その三種の全知を獲得するべく加行する菩薩(修行者)のものの二種類があることを指摘している。 ジャムヤンシェーパのこの新概念は、『現観荘厳論』の加行(=現観、瞑想)の構造を、対象としての三種の全知の認識のあり方と、実践主体としての加行時の菩薩の認識のあり方という対立で捉えることが可能であることを示唆している。
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