二○○四年五月から十月にかけて六度の四国を中心とした調査旅行を行い、十三点の新たな四国遍路絵図を初め、四国遍路に関する新史料の採訪・発見を行った。その成果を、二○○四年十二月十二日に早稲田大学で開催された日本仏教綜合研究学会において口頭報告した。その報告は、『日本仏教綜合研究』第三号(二○○五年五月三十一日刊行予定)に掲載される。その内容の概要は、以下の通りである。すなわち、四国遍路絵図には、A・A'・A"といったA型系の遍路絵図があり、A型系の絵図こそ遍路絵図の代表的なものであった。それらに共通する点として、絵図の中央部に、弘法大師像が描かれ、四国遍路に関する高野山の前寺務弘範による密教的意味付けが書かれていることがあった。そうしたA型系の遍路絵図の特徴は、(1)一般庶民までもが四国を遍歴修行すること、(2)弘法大師信仰による統合と意味づけ、(3)「八十八か所」の確立という三つの要素を有する四国遍路がいつ成立するかという問題を考えるうえで大いに重要である。貞享四(一六八七)年に、真念の手によって、四国遍路のガイド本である『四国遍路道指南』が著され、それを手に遍路する人が増加した。だが、まだまだ、(2)の要素である弘法大師信仰による統合と意味づけという面では、不十分であった。ところが、A型絵図は、大師信仰の観点から、遍路絵図は描かれ、絵図の中央に巻物を開いた枠取りの中に、釈迦像と椅子に座った弘法大師像を描き、その左側に四国遍路に関する高野山の前寺務弘範による密教的意味付けが書かれている。弘範は、宝暦九(一七五九)年ころにに第三○四代の高野山金剛峰寺の検校(寺務)となり、明和五(一七六八)年十一月二十九日に死去した。現在のところ、それ以上のことはわからないが、最初の四国遍路図に、高野山の前寺務弘範という高僧によって遍路の密教的意義付けが書かれたことは決定的に重要であった。まさに、本絵図には四国八十八札所遍路の大師信仰による統合と意義付けがなされているのである。とすれば、この絵図の出現こそ、大師信仰による統合と意義付けがなされた四国遍路八十八札所の確立に決定的な意義を有するものであったといえよう。
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