本研究の課題は、四国遍路の思想史を明らかにすることにある。換言すれば、四国遍路は、いかなる思想に基づいて、いかに成立し、確立していったのか、四国遍路の思想はどのように変化してきたのか、などを明らかにしようとした。 本研究では、四国遍路のガイドマップといえる四国遍路絵図に注目した。四国遍路絵図は、従来、ほとんど注目されてこなかったといえるが、絵図には、当時、四国遍路がどのように理解されていたのかが、絵と文字を通じて表現されており、使い方によっては、思想史研究上の重要な手がかりとなる。 本研究によって、七十六例もの江戸時代の四国遍路絵図を見いだすことができた。また、その型式の分析を通じて、(1)A-Gの七型式の遍路絵図が作成されたこと、(2)とくに、A型式の宝暦一三(一七六三)年の絵図がもっとも古く、(3)それを基にして他の型式の絵図が作成されたことなどを明らかにした。 ところで、四国遍路は、1)一般庶民までもが四国を遍歴修行すること、2)弘法大師信仰による統合と意味づけ、3)「八十八か所」の確立という三つの要素を有する。四国遍路絵図は、まさに、それらの要素が集約的に表現されたものであり、本絵図の成立は、四国遍路の「確立」を告げるものであった。一七世紀には、八十八カ所も固定し、修行者のみならず庶民も四国遍路に旅立っていった。しかし、四国遍路八十八札所寺院には禅宗、天台宗寺院も含まれたために、大師堂もない札所が多数存在した。すなわち、弘法大師信仰による統合と意味づけという面では、十分ではなかったといえる。ところが、A型式を特徴づけている高野山前寺務弘範による四国遍路の密教的意義付けにより、四国遍路に密教的な意義付けが与えられた。すなわち、遍路絵図を持って旅した人々は、絵図により遍路の密教的な意味を理解したし、札所の方も、宗派を超えて大師堂を建設していったのである。
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