南北朝時代後期(五三四〜五八九年)、華北地方では北斉時代(五五〇〜五七七年)、とくに初代皇帝文宣帝の厚い保護の下、仏教が隆盛を極めた。その後の皇帝たちも仏教保護政策をとった結果、首都である は、官寺を含む四千の寺院が立ち並び、八万の僧侶が住む一大仏教文化の中心となった。仏教美術もインドや東南アジアからの新たな情報を大量に受容し、この時期急激な発展を遂げたことが知られている。しかし窟形式のみならず漢民族の伝統的墓葬美術との融合といった面で、北魏時代後期の伝統が未だ強い影響力を持っていたことも無視できない。北斉時代の仏教美術には、進取性と保守性という二つの側面が併存したのである。しかしこれまで、北斉時代の仏教美術研究は、石窟寺院の造像を中心におこなわれ、都市の仏教寺院でいかなる仏教美術が展開したかという問題は看過されてきた。そこで首都付近から出土した白大理石像を石窟美術と比較する作業をおこなったところ、以下のような結果が得られた。都市寺院と石窟寺院の間には、密接な影響関係があった。それにもかかわらず白大理石像と石窟造像の様式やモチーフに違いが見られるのは、両者の採用基準に違いがあったことを意味する。これは僧侶が中心の石窟寺院と違い、〓に開かれた都市寺院では世俗の人々が果たす役割が大きかったことに起因する。柔らかで優しい印象の造像や、透かし彫りなどの洗練した技術、西域的な造像の流行は、すべて貴族(寄進者)の趣向と関係する。また都市寺院では石窟と異なり、樹下半跏思惟像が好まれたことから知られるように、貴族たちは自らが修行してそこへ到達するというのでなく、修行者の助けを受けそこへ到達することを目的としていた。そしてこれが、奉納像として造られた都市寺院造像の最大の特徴であり、都市寺院造像を石窟造像とは異なるグループとして成立させる要因となっていると結論される。
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