本研究は、室町時代の画家、雪舟の絵画活動について、(1)実際的な制作活動と(2)関連する文献資料との相関関係を明らかにしようとしたものである。 とくに雪舟の絵画活動のなかから、彼が朝貢使節の一員として中国に渡った時期(1467~9年)に絞って集中的に調査研究を行った。それによって明らかにすることのできた最大の問題は、雪舟が中国で行った絵画活動には、15世紀後半から16世紀にかけての、一般に大航海時代と呼ばれる世界史的な動向が大きく関わっていたということである。 雪舟が中国旅行のなかで、とくに、 (A)中国江南の都市文化の興隆のさまを如実に写し取り(「揚子江図巻」「寧波府図」)、 (B)東シナ海貿易さらには南海貿易に活躍する諸国民の姿を図に表わしている(「国々人物図巻」)ことに、従来は未検討であった大きな問題が潜んでいることが明らかになった。 そのことを、中国渡航時代の雪舟についての興味深い関連記事を多く含む、堺の海会寺の住持、季弘大叔の日記『庶軒日録』から得られた二つのKeywordを軸に分析を行った。 その二つのKeywordとは、「経済的流通」と「文化的威信」である。 (1)東シナ海貿易での経済活動を前提にしてはじめて理解できる、「国々人物図巻」や「寧波府絵図」などは、「経済的流通」の実際面へのコミットを強く思わせる。 (2)一方、雪舟が江南の文人や富裕市民たちとの交流のなかで描いた「四季山水図」4幅の壮大なプロジェクトは、「文化的威信」をかけての制作であったことは明らかである。 これを(1)は実用的な「絵図」の仕事、(2)は水墨画の「芸術」の仕事ともいえよう。 雪舟のこれからの生涯においても、この「絵図」と「芸術」の二つの領域が、相互に矛盾を孕みつつも、この画家の後世に残した成果の本質をなすものとなろう。そのような見通しを、本研究によって得られたということができる。最晩年の天橋立図こそはその帰結といえるだろう。
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