今年度は、スティーグリッツのドイツ留学期における写真観の展開を継続して考察するとともに、その背景となる19世紀の視覚論の検討を並行しておこなった。さらに、『カメラ・ノーツ』編集以降、『カメラ・ワーク』の廃刊とデュシャン等との交友に至る20年代までの期間についてスティーグリッツ自身の写真観の展開とニューヨークにおけるアヴァンガルドの様々な潮流とスティーグリッツの関わりを研究した。 (1)19世紀の視覚論については、ヘルムホルツに集約される生理学的視覚論の内実について、クレーリー等の議論を再考した。18世紀末の視覚論の状況とその19世紀への展開とその結実を考察した。 (2)20世紀におけるスティーグリッツ写真行為の根底に、エリーティズムがあるとする見方が通例である。しかし、彼は世紀初頭のアメリカにけるアナーキズム系芸術集団と関係があり、従来の見方について再検討を要することが判明した。 (3)バイネッケ稀覯本図書館での書簡調査によって、キューンなどとの30年代及ぶ交流の事実に加えて、写真家以外の画家などとの相当濃密なやりとりの内容が明らかになった。 (4)スティーグリッツサークルの実像が、この40年ほどの間に提出されたアメリカの大学のスティーグリッツ関連の博士論文20編によってより具体的に判明した。 (5)スティーグリッツにとって、「写真は芸術である」という命題は常に不確定なものであった。その原因は、「芸術」概念が根底的変貌を遂げる時期に彼が写真の本質を追究したからである。したがって、この「芸術」概念をスティーグリッツが結局どのように捉えきったのかが問題であり、それを解明する上で、『カメラ・ワーク』の精査が不可欠であるが、同時に、『291』の編集に携わったピカビア等の「芸術」思考との葛藤がスティーグリッツをどこへ連れ出したかの見極めがきわめて重要である。本年度は、この方面に関わる文献の調査も相当進展した。
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