本年度は中世を中心にして研究を進めた。特に注目したのは十四世紀後半のジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』の「法学士の物語」に見えるアラブ・イスラムに纏わる複雑なイメージと表象構造である。それは、一見して宗教的な二項対立の「他者」として単純明快に想定されている。西欧キリスト教会(ローマ)に対するイスラム教(シリア)という構造の中で、後者は当然「悪」を表象する。しかしそのあからさまな勧善懲悪的な「虚構の正義」の構造は、その物語に付された「序」という枠構造から、批判的な視点が与えられる。「序」では、キリスト教的価値のひとつである「清貧」があからさまに否定され、「貧」こそ「悪」とされる。逆に「富裕」は積極的価値とされ、その具体的な効果は、他者との交流だと言う。この商業経済活動という現世的交流の次元を積極的に強調する視点からすると、「他者」は、詰まるところ、「自ら」を補完する機能を担うものとして意識される、と見ることができる。西欧キリスト世界にとっての「アラブ・イスラム」は、その表象における特徴的な曖昧さもその一つの条件として、自らのアイデンティティを維持するための「補完的他者」に他ならないことが明らかとなる。 このように、中世後期の西欧における「アラブ・イスラム」の表象は、主に世俗的な言説の台頭とともに、その「補完的他者」としての機能が意識的されるようになる。それはすなわち、西欧が自らのアイデンティティに関して、より反省的になったことの証差でもある。
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