本研究の目的は、夏目漱石が職業作家として出発するにあたって集中的に読んだと思われる同時代のヨーロッパ小説が実際の漱石の作品におよぼした影響について、漱石所蔵本への書き込み・傍線を主な手がかりとして探ることにあった。 そのための基礎的作業として、漱石蔵書の書誌データをすべてデータベース化し、まず所蔵本の発行年度に注目して分析を行った。その結果、漱石蔵書中、同時代ヨーロッパ小説(英書およびその他の欧文からの英訳書)群の発行年度が、漱石が『吾輩は猫である』によって創作活動を開始した頃から、やがて一高・帝大を辞して朝日新聞に入社した前後の数年間に特異的に集中しているという事実が判明し、同時代ヨーロッパ小説群の繙読と、漱石の初期創作活動の間に関係があるのではないか、という仮説を裏付ける結果になった。 漱石自身書簡その他で、創作のきっかけを得るために他の小説を読むという習慣を明らかにしており、またそれを「人工的インスピレーション」と名づけているが、この習慣については従来の漱石研究の中でも論じられることは少なく、また論じられてもメレディスの作品と『虞美人草』という個々の影響関係の中で傍証的に言及される程度だった。しかし、今回の研究の成果から、同時期に読まれたと思われるモーパッサン、ドーデ、ズーデルマン、ダヌンチオ他、多様な同時代ヨーロッパ作品が漱石の初期作品に与えた影響を書き込みや傍線から個々さらに詳細に検討する必要性があることが明確になった。今回の研究においては蔵書データベースおよび書き込みデータベースの作成に予定以上の時間を要したために、基礎的な調査の段階にとどまったが、今後は書き込み内容と作品内容の比較検討を進め、特に漱石の独自な小説観の形成への影響を中心に考察を行っていきたい。
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