明治維新以降の国家による教育体制の構築が大日本帝国憲法下の「臣民」育成を目標としたことは、これまでの分厚い蓄積をもつ教育史研究によって明らかにされてきたことではあるが、一九三〇年代後半からはその「臣民」はそれ以前と質を異にするものになった。マルクス主義が強権的に弾劾されるのと軌を一にして、個人主義・自由主義・民主主義なども欧米からの輸入物として一斉に排撃され、その対極に絶対的に拠るべきものとして「国体明徴」・日本精神があらゆる領域を覆いつくした。その結果、「臣民」は「皇国民」として「教学錬成」に駆り立てられた。「皇国民」は、朝鮮・台湾、「満洲国」、占領・傀儡政権下の中国、さらに軍政下の東南アジア各地域でも育成されねばならなかった。 「教学刷新ノ中央機関」として発足した外局の教学局は、文部行政の迷走も加わって不振を極め、国民精神文化研究所との競合も深まった。その打開の方向として「東亜教育」「興亜教育」への展開がめざされたが、華北占領地における教科書編纂などへの関与程度にとどまった。しかし、総力戦体制の遂行のために、あらゆる領域で「錬成」が第一義的目標となると、教学局の存在意義は高まった。特に対米英開戦後は、「大東亜建設二処スル文教政策」という国家目標の下で、戦時下学生思想指導の強化や「国民思想指導」の徹底が図られ、四二年には行政簡素化により、外局から内局へ移行したものの、「皇国民」錬成教育の完成へと邁進した。この間、国民精神文化研究所は一九三〇年代後半には「思想国防」を基軸に拡充を図るが、教学局との軋礫のなかで四〇年代には存在意義を小さくしていった。 このように最終年度において、全体像をまとめるにいたった。以下の構成となる。 I 思想統制の始動-社会科学研究の抑圧(一九二八年以前) II 思想統制体制の確立-学生課から学生部へ(一九二八年-一九二九年) III 思想統制体制の展開-学生部(一九二九年-一九三四年) IV 思想動員体制への転換-思想局(一九三四年-一九三七年) V 「教学錬成」体制への移行-教学局<外局>(一九三七年-一九四一年) VI 「皇国民」錬成教育の究極化-教学局<内局>(一九四二年-一九四五年) 幸いにも、報告書の内容を圧縮したものが、同名の書名で校倉書房から刊行の運びとなる(二〇〇七年六月刊行予定)。
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