本研究は三好氏権力の内部構造ならびに地域支配の特質の解明を目的とする。近年発見された新出賀茂別雷神社文書に含まれる三好氏法廷で審理・裁許された2つの相論関係史料(約120点)が格好の素材であることが判明したため、これを主たる分析対象とした。史料は大半が年欠であるため、まず年紀を比定したうえで相論過程を復元し、全史料を翻刻・紹介した。 2つの相論関係史料はいずれも永禄年間のものであり、三好長逸・松永久秀両名の指揮下で審理が進められている。しかしその裁許システムは室町幕府訴訟制度のようなシステマチックかつシンプルなものではなく、三好氏当主・宿老・有力被官ならびにそれぞれの内衆が発給した大量の文書が示すように、訴訟当事者と三好氏権力との繋がりや権力内部の力関係が複雑に絡まり合い、それらの妥協点で裁許がなされている様子が窺える。これは国人・土豪の被官化を通して在地支配を進展させる三好氏権力の在り方と、その反面、意思決定が在地社会の動向に規制される側面を反映したものであろう。また審理・裁許にあたっては松永久秀の主導性が目につく。大和・南山城地域の支配担当者であるにとどまらず、裁判権という支配の根幹に関わる権限の行使に深く関わっていた久秀の三好氏権力内部における位置付けについてはなお慎重に見極めていく必要がある。一方、久秀の山城・大和地域支配の実態を解明すべく関連史料の収集を行ったが、史料上の制約が大きく、支配の様相は十分に明らかにすることはできなかった。ただこの過程で永禄末年に三好氏が発給した「知行賦」を発見し得たので、史料紹介を行い、背景について若干の考察を加えた。 さらに賀茂社相論関係史料からは、土倉大森一族と三好氏との緊密な関係が明らかとなる。三好氏の都市や商業資本支配を考える上で興味深い事例の発見となった。
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